やまびこ観測所

世の中で起こっていることを観測して記事にしていきます。

平野啓一郎「私とは何か」

副題は”「個人」から「分人」へ”
講談社現代新書2172、著者が小説の中で描いてきた概念「分人」について1冊でまとめられている。

 

日蝕」は出たころに目を通した記憶があるが、理解がおいついていなかった。
学生の頃、何かのきっかけで「葬送」を読みはじめ、人物の内面描写にどっぷりとはまった。
B5ノート10ページ余りに、気になった文章を写し書きするほど。
読んでいて頭が刺激され、そのほとばしりをノートにぶつけたのだろう。
その後、おそらく著作を網羅はしていないが、ぽつりぽつりと読み進めている。
小説は考えさせられる内容に満ちているし、今回の新書は、人生を歩く手助けになる考え方が示されている。

 

「人間の基本単位を考え直す」というのが目的だと冒頭に記されている。「個人 individual」よりも小さな「分人 dividual」という単位を設定し、これを元に自分と他人との関わりを再考していく。最終章では、他人とは明確に分断される「個人」に対して、「他者との関係においては”分割不可能”」であるのが「分人」との論に至っている。分人主義とは、個人を大きな単位(人種や国籍など)で粗雑に統合するのではなく、単位を小さくすることで、きめ細やかな繋がりを発見させる思想だ、との説明。

「分人」という言葉が、新たに発明されているが、考え方としてはとても心になじみやすいと思った。序章に述べられているとおり、分人という「分析のための道具」を用いることで、「私たちは現在、どういう世界をどんなふうに生きていて、その現実をどう整理すればより生きやすくなるのか?」という人生の問い(私とは何か?自分はこれからどう生きていくべきなのか?)に対しての一つの考え方を示してくれている。

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章立ては以下の通り。
第一章 「本当の自分」はどこにあるか
第二章 分人とは何か
第三章 自分と他者を見つめ直す
第四章 愛すること・死ぬこと
第五章 分断を超えて

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印象に残った内容
・「本当の自分」と「ウソの自分」というモデルは幻想
・「分人」他者との相互作用の中で生じ、関係性の中で変化しうる、分人すべてが「本当の自分」
・中世における魔女裁判:人物の「存在そのもの」に対して行われる⇒自分の全存在をかけて、「魔女ではない」と証明しなければならない
(一方、近代の訴訟は「行為」に対して行われる)
・人間関係は多種多様:自分に対して「一切隠し事をしてはならない」「あなたのすべてを私に見せなさい」という態度は傲慢。相手に対して神になろうとしているも同然
・「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いるもの
・私たちの人格そのものが、半分は他者のおかげ:自分とは、他者との関係で生じた分人の集合体であり、他者もまた、様々な人間との分人の集合体


「分人」という概念が必要ない人はそのままで良いだろうが、この概念を頭に置いておくことで、現代社会の「生きづらさ」がいくらか、解消されるのではないかと思う。以前から、「(こんなに生きづらいなんて)自分はなにか根本的な誤解をしているにちがいない」という思いが頭を離れなかった。最近は、少しだけ前よりうまくやれるようになってきている気がする。この本に書かれている考え方のおかげもありそうだ。

小説はなんだか衒学的なところもあるが(それもまた魅力なのだが)、この新書だと、身近な人間関係を例にとって、著者の考え方が平易に語られている。言葉は人を救う力があるな、と思った。

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映画版「マチネの終わりに」が公開されている。観るかな、どうかな……。

写真はとある秋に撮ったもの。今年も内省の季節がやって来た。

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