「未知なるもの」との向き合い方
「VUCA」*1という言葉が怖かった。
今の時代だから、先が見えなくて、何にすがればいいのか解らないのだと。
不運な時代に生を享けてしまったものだと思うことがあった。
自分が生まれる前よりも、現代の方が「先が見えない」社会になっているのだと感じていた。*2
今振り返れば、そう思っていたのだが。
これまで経験したこともないような世界のなかで、「新しい日常」を生き始めている。
異例の事態、というフレーズが耳になじんできたのはいつごろからだっただろうか。
緊急の状況で、脳が自分を守る方向に動作してきたのか、「VUCA」を受け容れていく気持ちになってきたような気がしている。
整理しきれてないが、渦中のひとりの記録として書き留めておく。
○類型化
→ウイルスによる感染症。エンベロープを持つからアルコールや界面活性剤が対処に有効、とか。
・知識と照らし合わせる。
・既に知られているものから、推測する。
○確からしい情報を集める
→確からしい情報、を何をもってそれと判断するのかは、改めて少し難しいと思った。
公的な研究機関、専門家、政府からの案内。
マスメディアが発信したり転送したりする情報。
私的なWEBサイト。資格を持つ、と標榜する人のSNSの発信。
実際に存在する医師の名前で、知り合いから送られてくるメッセージ。
(後に、所属機関や本人からそんな事実はない、と発表されたりする)
○情報を取捨選択する、読み解く(懐疑的に見る)
極論すれば、数字の正確さと、データとして正しいか?は別なのだろう。
感染症は、個体の中での事象と同時に、集団の中での事象としての意味も大きいと思う。
「PCR検査陽性者は○○人です」という報告から、推測できること、妄想してしまうことはいろいろあるだろうが、裏付けがとれる事実は限られてしまう。
確かな情報であっても、その情報が示す事実は限定的であることが多い。
○扱いきれないことをやりすごす
情報は限定的だし、仮説は立てられても自分で実証できないことばかりだ。
我が家にオートクレーブはない。笑
家でホットケーキを焼いて楽しむ、というのは、冒頭に書いた「向き合い方」ではないが、新しい日常に必要な「やり過ごし方」だろう。
○走りながら考える
「絶対これが正解だ!」とはわからない状態で手を打っていかなければならない。
状況がゆっくり進んでいくわけでなし。
100%の正しさを待つのでなく、60%確からしい情報と30%確からしい情報があれば、前者を選択していくこととか。
あるいは、可能性は低くても、後者の方が確かだった場合のリスクが甚大であれば後者を選択するとか。
政治家でも、社長でもない自分だが、案外、いろいろ考えさせられているような気がする。
(だから、COVID-19がないときよりは疲弊して当然である、とは思う)
—
「群盲 象を撫づ」という諺がある。
巨大な象のあちこちの部位を、目が見えない人が触って、色々ばらばらなことを言うという例え。
個々の発言は事実だけど、全体は一体……?ということだと思う。
見えない人をあざ笑っているような言葉とも思えなくないが、本義はそうではないと思う。
見えないことをわきまえて、最善を尽くすこと。
よりよい理解を求めていくことで、「未知なるもの」の正体が、適切な対処方法も含めて明かされていくのだろうと思う。